Posted by : Kyoko Mstra 2014年2月20日木曜日


《会員エッセイ》

翻訳の仕事は面白い。しかし、翻訳作業は苦痛だ。自分の能力の不足に加え、納期まで余裕はなく、原文のほとんどは悪文である。受注すれば小躍りするものの、いざ原稿に向かうと「これだけの量を納期までに仕上げられるのか」と不安が一気に頭をもたげてくる。七転八倒しながら訳文を完成し、見直しに喉が嗄れるほど音読を繰り返して納品した後も「あそこはもっと適切な訳し方があったのではないか」、「ここは訳し直すべきではなかった」、「どこかに見落としがなかったろうか」と後悔と反省で悶々として過ごす。

つい先日も納品後にくさくさした気分を引きずっていた。ちょうどテニスの全豪オープンの開催中であったため、気分転換にテレビをつけた。画面中央にはラケットを握った丸太のような左腕が映っていた。カメラはそのままラケットを握る左腕の内側の肘から手首を追いかけて、次の刺青をクローズアップした。
Ever tried. Ever failed. No matter. Try again. Fail again. Fail better.'

この腕の持ち主はスタニスラス・ワウリンカ。スイス人のテニス男子シングルス選手である。プロデビュー当初からその才能と実力は認められていたものの、ここ数年間は主要な大会ではなかなか本領を発揮できず、世界ランキングも10位に食い込んだかと思うと即20位前後まで転げ落ちる有様だった。ロジャー・フェデラー、ラファエル・ナダル、ノバク・ジョコビッチらの強豪選手には長年にわたり連敗し、錦織圭など台頭する若手に惨敗を喫することも少なくなかった。テニス選手としては太りすぎた時期もあった。ありていに言えば、不器用でぱっとしない選手である。以下、スポーツナビに掲載されたワウリンカの紹介文の一部である。

スイス第二の男――それが長く、ワウリンカに貼られたレッテルである。スイスには絶対王者のロジャー・フェデラーがいることもあり、ワウリンカは2008年にはトップ10入りしているにもかかわらず、その存在は常に同郷のフェデラーの陰に隠れ気味だった。

そんな「スイス第二の男」利き腕に彫り込まれた文言は、アイルランドの作家サミュエル・ベケットの "Worstward Ho"Samuel Beckett, 1983(邦訳「いざ最悪の方へ」書肆山田、 199911月、長島確訳)からの引用である。引用元はさておき、この刺青についてワウリンカはどのように考えているのだろうか。以下は試合前後のインタビューからの抜粋である

このフレーズが大好きなんですよ。これはね、僕の仕事や、たとえ試合に負けても僕がこうありたいと思っていることを簡潔に表してるんです。
(引用元:20 minutes2013418

これは僕の哲学なんです。僕の人生の哲学。つまり、テニス選手の哲学ですね。ナダル、フェデラー、ジョコビッチ以外の選手は、トーナメントのどこかで必ず負けてしまうんです。でも、その負けから学ぶことがあるんですよ。試合に負けても前向きに考えることを忘れちゃだめなんです。
(引用元:Straight SetsTennis Blog of The New York Times201364

これは僕の仕事観であり人生観です。テニスの世界では、ご存じの通り、ロジャー、ラファ、ジョコビッチ、アンディ以外の選手は滅多に優勝なんてできないんです。必ず負けるようになっているんです。でもね、僕たち選手は、負けを前向きに捉えなきゃならない。そして、また仕事に戻らなきゃならないんです。
(引用元:Straight SetsTennis Blog of The New York Times201396

勝ち負けというものは明確な基準があって初めて決まるものである。だから、例えば人生というあやふやなものについて「勝ち組」「負け組」などと形容しても意味がないと思う。しかし、売り上げや顧客の評価という確固とした基準のある職業としての翻訳においては、テニスの試合と同様に、ある時点での勝者と敗者が生まれるものではないだろうか。その意味では、私など一昨年に独立してから連戦連敗である。悔しい話である。「どうせ私なんて」と卑屈になったり、「フリーランスではやっていけないかも」などと心が折れたりすることも日常茶飯事である。それゆえにEver tried. Ever failed. No matter. Try again. Fail again. Fail better.という文字列から目が離せなかった。また、「不器用でぱっとしない」ワウリンカの泥臭くも前向きな姿勢に心から拍手を送りたいと思った。翻訳が好きで、翻訳者という職業を選んだ。ずっと翻訳者として食べて行きたい。であればこそ、トライアルでも、新規分野でも、厄介な案件でも、今後も何度でも挑戦しよう。もし失敗しても再挑戦すればいい。再挑戦の結果が失敗であっても、前よりも幾らかましな失敗になっていればそれでいいのだ。

なお、放送中の試合は、ワウリンカ対世界ランキング2位のノバク・ジョコビッチの準決勝だった。ワウリンカはジョコビッチに対し2006年以来14連敗中だった。が、結果はワウリンカの勝利であった。決勝に進んだワウリンカは、世界ランキング1位のラファエル・ナダルと対決した。対ナダル戦の戦績は12連敗中であった。しかし、そのナダルをも撃破した。世界ランキング1位と2位を倒し、文句なしの四大大会初制覇であった。"Failing better"の繰り返しの末に辿り着いた頂点だった。

参考
Ever tried. Ever failed. No matter. Try again. Fail again. Fail better.



なつこ

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